光栄「三国志」の思い出

光栄(現コーエー)の人気歴史シリーズ「三国志」についての、ただの昔の個人的な思い出語りです。他の方にも有益な話は…たぶんそんなにないでしょう。

 

光栄「三国志」にドハマりする

Wikipediaの記録によれば、光栄の「三国志」が最初にPC88でリリースされたのは1985年12月のようなのでそれ以降ですが、大学3年生だった自分が当時は毎週末つるんでいた高橋留美子FC関係の友人Y君の家のPC(たぶん98版…ということは1986年5月以降か)で見かけた「三国志」の面白さに衝撃を受けました。

当時の自分は土曜の午後はお茶の水の喫茶店「サンロイヤル」で高橋留美子FCの人間十数名が集っての雑談で午後一杯を潰し、それから夕食にしてから友人宅で同人誌の編集をしたり解散したりするという無駄贅沢な時間の使い方をしていたのですが、一時期は終わったら横浜のY君の家に遊びに行って、日付が変わる頃にY君が寝てから別室のPC98を借りて朝まで一睡もせずに「三国志」で遊んでから、Y君が起きてきたら一緒に日曜の朝飯を食べてからバイバイみたいなこともしばしばやっておりました。正直なところいま思えば、それってY君に対しても随分な扱いだったのでは当時の俺はと思わなくもない話です。少しだけ反省。

まあ、さすがにこんなことはいつまでも続けるでもなく、自分でも中古のPC88を買ってPC88用の「三国志」を中古で?買って以後は自宅で遊びまくることになります。当時の自分にはPC98は高くて買えませんでしたので(’30万円は超えていたはず)。

もしかしたら「三国志」を買う前に、すでにエロゲ目当てで持っていたかもしれません。 正直「SR以降」が出たので無印のPC8801はすでに型落ちの旧機種で中古もだぶつき始めて安かったので。

でもたぶんそれなら、即座に「三国志」のソフトを買いに行っていた筈なので、やはりこのタイミングで無印のPC8801を買いに行ったのだと思います。そしてPC8801でエロゲにも目覚めたわたくし。

 

光栄「三国志SR」で引き続きドハマりする

三国志SRこと「三国志 /PC8801mkIISR対応版」が発売されたのは1987年4月のようなので、それ以降の話ですね。最初のPC8801版よりも、後に出たPC98版はいくつか機能追加がされていたのですが、それも移植した「三国志SR」が出たと聞いて、ざわざわしました。当時の貧乏な自分にはまだ「SR以降」は、まだちょっと本体購入に踏み切るのが難しい値段でした。20万円は超えていたと思います。

ここで登場するのがY君の友人のS君。当時も今も自分はハードの改造には無縁の人間なのですが、ここで「PC88(無印)を改造するとPC88SR以降のソフトが動く」という話を小耳に挟み、かつS君が小遣い稼ぎに(すでに型落ちで安くなっていた)「中古のPC88(無印)を改造してSR以降が走るようにしたヤツを10万円で売る」という話を持ってきました。秒でバイトで10万円を作ってS君から購入したわたくし。

もちろん「三国志SR」のソフトも確か水道橋のレンタル屋入手して、以後は自宅で「1日中、三国志やり放題」の日々が続きます。発売時期から推定すれば大学3年生のときの話ですね。ほぼこれで4年生の卒研に必要な単位が取れずに1留することが確定していました。まあ正直、すでに3年の頭の時点でヤバめのはほぼ見えていましたし当時の「理科大の物理科なら1留はふつうです」という空気もあったので、折り込み済の話ではあったのですが。

そもそも真面目な学生なら大学1年からきっちり単位は取り続けて2年が終わる頃には必要な単位は取っているわけなので、この頃には自分でも「大学院に進んで科学の世界で身を立てよう」というつもりは別になかったことを意味しているわけですが。

 

大学を留年して「三国志」攻略本を自作

そんなわけで、卒研入りに単位がすこし足りなかったので4回生を迎えたわたくし。しかし言い換えればこれは、1年かけて1科目か2科目の単位を取れば良いだけであったので、かえって時間には余裕ができたのでより一層「三国志」をはじめとしたゲームや同人誌活動にいそしむわたくし。

そして、こちらの「マーズ・マーケティング・カンパニーの話」でも書いたように当時の自分は「オークビレッジ」でAppleIIやMacintoshのゲームのマニュアルの翻訳冊子を作るというバイトもやっていたわけですが、賢明な読者はお気づきかもしれませんが、この時点の自分はPC98を所有しておりませんので「日本語ワープロソフト」などというものは所有しておりません。もちろんPC8801でビジネスソフトを動かしたり、白黒Macの漢字たわけTalkとImageWriterで「デスクトップパブリッシング」をやっていたわけでもありません。

では当時の私は、どのようにしてオークビレッジに納入する日本語マニュアルを作成していたのでしょうか…ということで、ここで登場するのが「日本語ワープロ専用機」です。具体的にはシャープの「書院」。

自分が最初に「書院」を買った機種や時期は定かではないのですが、最初期の「表示が1行だけの液晶モニタ」の頃に手を出しました。「書院」の歴史を見ると、どうもこれは1984年の最初の「ミニ書院」であるWD-500である可能性が高いのですが「値段33万円」というのを読んで少し驚きました。それを出せたんだな当時の俺。まあ親元に住んでバイトでお小遣いは捻出していたけど。

1984年ならPC98とプリンタを揃えようとすれば確実に50万円は超えた筈ですし、Mac128kが発売した頃で漢字Talkもありません。なので33万円で綺麗な24ドット位の漢字の印刷ができたワープロに「これだ!」と33万円を出したのでしょう。
1984年といえば、自分が大学生になって本格的に高橋留美子FCの同人活動を始めようと思った時期ですし。

それはそれとして、たとえ表示が「本体の液晶画面の1行16文字のみ」であろうとも、それでちまちま画面を見て直したうえでプリント出力すれば「ちゃんとした長文の日本語文書」を出力できる「ワープロ」の効果は絶大でしたので、以後、自分はこれから何年も、オークビレッジの翻訳マニュアルや、高橋留美子FCの同人誌の原稿も、これを使って作り続けることになりました。

そしてその流れで、自分は光栄のゲーム「三国志」についても、登場する武将255人の全員について、画面から得られるすべてのパラメーター(武力や知力や魅力…というおなじみのアレ)のデータを画面からの目視ベースでメモを取ったうえで、それを書院で全部打ち込んで、いわゆる「攻略データ集」を自作しました。

いまなら普通に公式筋からゲームの「攻略本」は発売されますし、ネットの「攻略サイト」でも手に入る情報ですが、1986年頃の当時はそんなものは公式筋にはなかったという事実は重要です。まあ、あればわざわざ自作しませんが。

留意しておきたいもうひとつのポイントは、この頃の初期のワープロはまだ「JIS第一水準」の漢字しか搭載されていませんでした。ほどなく新型を買って「JIS第2水準」も搭載されて「おお、この漢字もこの漢字もある!」と狂喜したっけかな…? このへんは記憶が曖昧です。いつ表示が「液晶2行」になったのかとかも。

いずれにせよ、たとえJIS第2水準の漢字が使用できようとも、そもそも三国志の武将名にはJIS第2水準にもない文字が普通に使用されています。
有名どころでも「荀彧の彧」がありません。
これが「荀いく」では、ちょっとテキストとしてしまらないですよね。
ではどうしたのか。もちろん自分で外字を定義したんです。まあ24ドットの文字だったからこそ、自分でやる気になったとも言えますが…。

このようにして作成した「光栄の三国志・攻略データ集」、当時のコミケでもコピー本を数部刷って売ったはずです。さすがに自分の手元にも残っておりませんが。

 

光栄の「内定」を取る

そんなこんなで「三国志」で遊びまくって、5年目に卒業研究を始めてからも週に1日くらいしか大学に行かなかった自分(ひどいね)も、それでも卒業研究はそつなくこなしつつ就職活動を行う時期になりました。

この「卒業研究」についても、基本的には自宅のMacのHyperCardでゲームを作ってました。週に一度の進捗報告では、MacPlusを自宅から飯田橋にある理科大の研究室まで運んで最新版を披露(笑)。まあそれで「OK」な研究室を選んだわけですけどね…。

そして当時の自分は就職先として、当然のように「光栄」に就職することも考えたのでエントリーしました。書類選考・試験も無事に通過して、役員による最終面接です。だいたいこんな感じでした。

光栄「大学時代は何をしていましたか?」
ぼく「だいたい同人誌と、Macintoshと、あとは三国志で遊んでいました」
光栄(笑)

ここぞとばかりにコピー冊子「三国志・武将データ集」を出して手土産に手渡すわたくし。それをパラパラと見る役員たち。

光栄「大学を1年留年しているようですが」
ぼく「ええまあそれも、言ってしまえば三国志のせいで」
光栄(笑)

光栄「弊社に入ったら、何をやりたいですか?」
ぼく「三国志のMacintosh版を作りたいです」

実のところ「三国志」の白黒Macintosh移植版は、たしか後年1990年代半ばに海外で発売されたはずです…ぜんぜん話題にならなかったし、いまWikipediaを見たら「移植一覧リスト」にすら入っていませんでしたが。

いずれにせよ、このように大変にフレンドリーな雰囲気で役員面接は終了したし、正直なところ「これは通るだろ」と自分でも思っておりました。
ちなみにどのタイミングだか忘れましたけど、どこかのタイミングで、当時は専務だった筈のレジェンズの女帝とも二言三言会話を直接交わしたというのが自分のささやかな持ちネタ(笑)。

そして実際に、光栄から「内定」は出ました。ぱちぱちぱちぱち。

実際には、当時の自分はFXISからも内定を貰ったので、大いに悩んだすえにFXISを選んでその光栄には「ごめんなさい」をしたわけなのですが。

FXISを選んだことで当時の自分はSmalltalkからの「オブジェクト指向チョットデキル技術者」として、色々あったにしてもこうして定年までやってこれたので当時のあそこでの選択を後悔しておりませんが、「あそこでFXISでなく光栄に就職していたら、自分の人生はどうなっていたんだろうな?」というのは、人生の大きな分岐点であったとは思います。

率直に言って、もしかしたら光栄でビデオゲーム作成側の立場でそこそこ成功できたかもしれませんし、あるいはそこでボロボロになってビデオゲーム業界から去って「もうビデオゲームなんて見るのも嫌だ」になっていたかもしれません。これは本当に分かりません。人生なんてだいたい運

 

現在に至る

基本的には、以後は光栄(コーエー)とは単なるユーザー(そういえば株主でもあり)の立場として接しているだけなので、とりあえずこのブログはここまでにしたいと思います。

(おしまい)


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