プロフィール
身長 | 165cm。高校時代から変わらず。もう変わるまい。 |
体重 | 高校時代は58kg。大学時代は65kg。75kgまで行ってから70kgに戻し、結婚してまた増加。2007年2月(82kg)に心筋梗塞を発症してから減量に励むようになり、2007年5月時点で72kg、2007年10月時点で65kg。2008年7月時点で64kg。2009年1月時点で63kg。2012年6月に82kg。2013年12月に85kg。やばい。2019年5月に92.5kg。さすがにヤバイと思うも2023年5月に95kgで心筋梗塞発症。2025年5月は85kg。90kgを越えたら命にかかわる感じなので減量必至。 |
血液型 | O型RH+ |
視力 | 両眼ともに強度の近乱視。裸眼値測定限界以下。LASIK不可。右眼は円錐角膜であり、すでに網膜もいかれていて矯正不能で事実上使用していない。このためガチャ眼。右目は白内障の手術済。 |
酒 | ごく少量のみ摂取可能ですが、やりません。 |
喫煙 | やりません。同じ卓を囲む人が少しだけ吸うのは許容範囲。自宅は全面禁煙。 |
食生活 | 加齢に伴い満腹許容量はだいぶ減りました。 |
睡眠 | 1日7時間。 |
健康 | 加齢と運動不足により体力は落ちています。腰痛あり。頭髪は乏しい。 |
性向 | |好奇心と弥次馬根性。思ったことは口に出す。個人の尊重と組織の非尊重。 |
思想 | 基本はリベラル。政官財が巨大な権力を保持して癒着し民を苦しめる日本社会の構造を心底嫌悪するという、特に最近は増えたよくあるタイプ(笑)。とりわけ学生時代は自民党が長期独裁政権を敷き、かつ日本の首相が中曽根、米国大統領がレーガンという史上最悪の右翼カップリングを形成していたこともあって、ほぼ完全な左翼であった。当時学生運動があれば間違いなく参加していたであろう。 |
支持政党 | なし。以前は(長期一党独裁は必ず腐敗するという理念に基づき)対抗勢力としての社会党支持を公言していたという恥ずかしい過去を持つが、周知のように社会党が政権を取った時の酷さは自民党以上であったことを露呈したため、共産党くらいしか支持する党がなくなってしまった、というよくあるタイプ。社会党の二の舞いになりかねないので民主党支持もちょっと公言する気になれない。 追記:やっぱり民主党は政権を取ってそうなったよね。 |
宗教 | なし。宗教団体が駅前で配る変なパンフの類を面白がって収集することもある。 |
子供~学生時代の略歴
1965年5月11日 | 0歳 | 名古屋で生誕。秋田で過ごす。秋田在住だったけど、出産時は父の田舎の名古屋の病院で、ということをした模様。 |
1965年5月 | 0歳 | 父が葛飾区奥戸の新築アパートの一室を購入。この頃はまだ父はすぐ近くの奥戸工場勤務ではなかったようなので、財テクだったのかなぁ。いまはこの築60年のボロアパートに相続した僕が住んでます(笑)。 |
1968年 | 3歳 | 静岡へ引っ越し。記憶は…ないですね。 |
1970年4月 | 4歳 | 父の転勤(森永乳業の奥戸工場)に伴い、東京都葛飾区奥戸へ引っ越し。ただし自己所有していた工場近くのアパートは後輩にずっと貸していたので、自分たちは工場敷地内の団地住まいに。 上平井幼稚園に入園。 |
1972年4月 | 6歳 | 南奥戸小学校に入学。 |
1975年8月 | 10歳 | 父の転勤(森永乳業の札幌工場)に伴い、北海道恵庭市へ引っ越し。恵庭小学校に転校。 |
1978年3月 | 12歳 | 恵庭小学校を卒業。 |
1978年4月 | 12歳 | 父の転勤(森永乳業の水海道工場)に伴い、茨城県水海道市へ引っ越し。水海道中学校へ入学。父はこの頃には工場長に出世していた模様。 |
1979年8月 | 14歳 | 茨城県取手市へ引っ越し。取手第2中学校へ転校。 |
1981年4月 | 15歳 | 創立間もない芝浦工大付属柏高等学校に入学。第2期生。現在同校は共学校だが当時は男子校だった。不運である(笑)。 |
1984年4月 | 18歳 | 東京理科大学理学部物理学科に入学。実験と電子計算機関連以外はなかなか悲惨な成績であった。1年留年。 |
1988年4月 | 22歳 | 石川研究室で卒業研究。石川教授(故人)の基本テーマは「物理教育」。物理学というものを一部の物好きな人間(笑)だけが志すものでなく、いかに一般に広く受け入れられるものにするかをその主目的とし、物理の面白さを伝える方法論や実践を主眼とするもの。その一環として当時すでにパソコンを用いたプレゼンテーションにも着目していた。このため非常に私には合っていた研究室であり、ここで学んだことが長く役だったと言える。 卒論はHyperCardでボドゲの「TITAN」を移植したゲームを作ってました。期待値計算で一番勝率の高いマスへの移動などの部分を数式化してAIと銘打ったりとはなんとか。 週に一回の進捗報告で、取手の家から飯田橋の大学までMacをでかいバッグに入れて運んでいたのも今はいい思い出。 |
1988年の春から秋 | 卒業研究の傍らで就職活動。 書類選考は通ったオムロンの役員面接まで京都に行きました。落ちましたが、正直、あそこで働く自分がイメージできなかったので落ちて良かったです。 当時に光栄に「三国志」にはまっていた関係から光栄を受けたら役員面接もパスして内定を貰いました。まあ当時はマカーでもあった自分が、まだ白黒しかなかったMacのに「三国志にはまって留年しました。三国志のMac版を作りたいです」と言えば、まあ通るかな(笑)。なおこの最終面接で、レジェンドの社長夫人と直接お言葉を交わしたというのが自分の持ちネタ(笑)。 FXISに見学に行って、水野ビル9階のSmalltalk部隊の雰囲気が非常に気に入った。ここで阿部さんらと初対面だった筈。内定を貰う。 光栄とFXISのどちらに行くかを悩んで、FXISを選ぶ。この選択が間違っていたとは思わないけど、光栄に行っていたら今はどうなっていただろうなと考えることはあります。 | |
1989年3月 | 23歳 | 東京理科大学理学部物理学科を卒業。 |
社会人時代の略歴
1989年3月31日 | 23歳 | FXIS(富士ゼロックス情報システム)に新卒で入社。研修後ほどなくSmalltalk-80(現VisualWorks)に接し、同社での6年余はほぼSmalltalkとオブジェクト指向のみに費やす。詳細は[[ソフトウェア技術者略歴]]を参照のこと。| |
1995年7月31日 | 30歳 | FXISを退社。 |
1995年9月18日 | 30歳 | SRAに中途入社。 |
2000年11月23日 | 35歳 | 結婚。 |
2007年2月 | 41歳 | 心筋梗塞を発症して死にかける(第1回)。 |
2007年12月31日 | 42歳 | SRAではとくに不遇などは受けなかったものの、もしかしたら50まで生きられないのではないのだろうか、おれの人生、このままでいいのだろうか…という気持ちもあったので、ひとつ勝負してみるかと誘われるままにSRAを退社。結果的には人生最大の失敗。 |
2008年1月11日 | 42歳 | J社に入社。ベンチャー企業の役員として誘われてほいほい入ったこの会社(いまはありません)はいわゆるブラック企業で、これまでの人生で最悪の1年余りを送りました。給料は最初から出ませんでしたので、その時点で「騙された」と現実を直視してさっさと辞めていればまだ傷が小さかったのだけれどね。 ていうか、知らない小さな会社への転職を決めるなら、その前にきっちりその会社の登記とか財務とかを調べるべきだったよね俺。 |
2008年6月1日 | 43歳 | J社 代表取締役 社長就任。引き受けても何も良いこともなく待っていたのは「社長なんだから社員の給料はお前が何とかしろ」と当時の会長から恫喝交じりに言われるままに自分のカネ(自分の貯金や親からの借金)を百万単位で減らし続け、最終的には年内に何千万円かを失いました。危険な兆候はすでにここまでの半年で充分に視界に入っていたのに、何で明日は我が身と考えてすぐ逃げなかったんだろう俺(ただの洗脳と考えるのが一番楽な結論。自分の誤りを認めなくないとかも色々)。 |
2009年3月20日 | 43歳 | J社 代表取締役 社長を辞任 取締役には留任。さすがに年明けにはもうカネがどこからも出せなくなり色々酷い目にもあった自分は、もうそれを回収するでもなくもうここから逃げることしか考えていなかった(会長による社員への暴力とかも酷くなる一方だったし)のですが、色々あってすべて承知の上で引き受けてくれる人にバトンタッチ。彼も騙されているというよりは彼なりの思惑はあったのだろうけど(山師のような人でした)。 |
2009年3月31日 | 43歳 | J社を退社(および取締役辞任)。もうカネを出せなくなった俺はお払い箱とも言うし、死ぬ前に逃げ切ったとも言えます。これでJ社とは縁切り。 |
2009年7月1日 | 44歳 | ワークスアプリケーションに入社。ワークスは結果的にはそのスタイル(若いみんなが将来の出世と給与のさらなるアップを夢見て定額でしばしば酷い残業や徹夜)で働くわけでもなく、といって先方の期待する成果が出せたわけでもなかった自分は最終的には切られましたが、まあ給料も定時で働くぶんには高目で悪くなかったとは思います(だから切られたんですが)。 |
2012年3月19日 | 46歳 | 母、亡くなる。ここから重度認知症の父を介護施設に預けたり取手の家を兄姉とともにメンテナンスする約3年間の日々に入ります。その過程でこの家などの扱いの今後の方針などを巡って姉と対立することになりました(のち、相続を巡って家裁案件)。 |
2015年2月2日 | 49歳 | 父、亡くなる。この頃には(取手の家のメンテナンス作業にも参加しなくなった)姉とはほぼすでに絶縁状態だったのですが、父の喪が明けるなり相続を巡って姉とは家庭裁判所での解決を行うことになりました。 |
2016年7月31日 | 51歳 | ワークスアプリケーションを退社。サービス残業を厭わずに将来の成功に賭けて若いうちにがむしゃらに働くスタイルでチャレンジできる方ならあるいは良い会社なのではないでしょうか。 いまも会社自体は残ってるみたいだけど牧野さんも居ないし…。 |
2016年10月 | 51歳 | 姉との家庭裁判の調停が成立。正直なところ当初から予想されたように、相続は均等三分割で終了し、しなくても良いアホらしいものでしかありませんでした。姉とは絶縁。 |
2017年1月1日 | 51歳 | ミャンマーにも進出していたA社に入社。当初に約束された年俸は最初から微妙に減額されましたが割と好きなように休みも取れたのでそこは目をつぶりました(休みを取って6月のラスベガスにも行けましたし)。 |
2017年5月 | 52歳 | 翌年2月末までの予定でミャンマーに赴任。人件費の安いミャンマーの技術者を使って日本向けの受託開発を行うプロジェクトの人足頭になるのが、僕に期待された役割でした。 |
2017年9月 | 52歳 | 自分のミスも含め色々あってプロマネを解任されチームリーダーのポジに降格。基本、僕にはおカネの計算はできなかった感じ。最初から当初の約束に達していなかった年俸がさらに減らされました。さらに営業がクラウドワークスで探した10数万円の案件を自分に打診するに至り「ここにとどまっても年俸アップはおろか今後も安くてキツイ案件しか来ない」と確信できたので、おそらく来年3月のミャンマー赴任が終われば遠からず会社を去ることになるだろうとは思いました(その通りでした)。 |
2017年2月28日 | 52歳 | ミャンマー赴任が終了して帰国。マジックが思う存分できなかったなど色々あったけれど、得難い人生の経験値を稼げた、おおむね楽しい生活でした。この4年後の2021年にミャンマーは軍事クーデターが起こって「もう行けない国」になったしね…みんな元気かなぁ。 |
2018年3月 | 52歳 | 帰国後、ミャンマーの報告書などを書いている最中の3月頭の早々に打診されA社の退社が決定。日本では今後はSESで働くか、さらに年俸を下げての契約社員としてなら残れると言われたのでそれには及ばずと首切りに同意(ただしこれでも自己都合退職扱い)。3月はミャンマーへの報告書など作成と、あとは慌しい引継ぎ書類書きと有休消化で終わりました。 |
2018年3月31日 | 52歳 | A社を退社。A社は自分は期待に応えられず結局はマッチしませんでしたが、有休残もきっちり使いきっての退職もできましたしいわゆる「ブラック企業」認定はしなくていいかなあとは思っています。まあ「当初の約束した年俸に微妙に足りてない」とかあるといえばあるのですが(笑)、正直なところおカネが十分でない(安い案件しか引けない)のは傍目で見ていましたしねぇ。 何よりも「10ヶ月のミャンマー生活」というのは自分にとってはかなり得がたい経験であったので、これで多少の不足はチャラにしてもいいです(笑)。最後に離職票がなかなか発行されず「自己都合退職」として書かれた以外の恨みはないので是非今後のご発展を祈っております。 |
2018年11月1日 | 53歳 | B社に入社。 |
2025年5月11日 | 60歳 | B社を定年退職し、同時に嘱託として再雇用。現在に至る。 |
マジック関係の略歴
2010年月 | 45歳 | M:tGの大会主催を開始 |
2011年7月 | 46歳 | DCIレベル1ジャッジを取得 |
2015年2月 | 49歳 | DCIレベル2ジャッジを取得 |
2025年1月 | 59歳 | もうマジックのジャッジを続けるのは色々な意味で無理なので、新しいジャッジ・コミュニティへの更新手続きを取らなかったので自動退会…かと思ったものの「降格」扱いなのでレベル1ジャッジになった模様。 |